2015年09月30日
戦時人形展〜平和への祈り〜 村上しま子
9月1日〜29日までの間、太平洋戦争中の庶民の暮らしや、
出征する兵士とその家族の心情を、当時の布を使って
人形で表現した「戦時人形展」が旧来住家住宅のギャラリー
で開かれていました。西脇市和田町在住の人形作家・
村上しま子さんの個展で、作成した約70点が展示されました。
村上さんは戦後50年の節目に、戦死したお兄さんの思いが
脳裏から離れず、一つの区切りとして供養になればと急に
思い立ち、戦時人形を作り戦争の悲惨さを語り継いできました。
今年は戦後70年、人形を作り続けて二十年になられます。
今年を最後の目標とされ、当時の情景、生活場面を人形に託し、
新制作に励まれました。遠い異国の地で戦い散って逝った
お兄さんや、多くの犠牲になった兵士達に「少しでも供養になれば」
と人形展開催の度に、強く願われています。
「お墓参り」 お父さんはパラオで戦い逝ってしまった
お盆がきてお墓参りに来ましたよ
母子三人、仲良く元気でいます
「空襲警報」 敵機B29が飛んで来るぞ!
防空壕に避難する母子
「端午の節句」 優雅に泳ぐ鯉のぼり
初節句を祝って ちまきを手に
出征した息子のいない寂しさに
隠し切れない母の姿
「洗濯物」 洗濯機もなく川やタライで洗濯していた時代
雪の日も毎日のオムツは川で
道中凍りついて干せない日が度々
こんな光景は見られない平成時代
「防火訓練」 あちこちで焼夷弾が落される
バケツリレーに励む婦人たち
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村上さんの兄・信義さんは22歳で出征し満州へ渡り
24歳の時、フィリピンのルソン島で戦死されました。
両親を幼い頃に亡くされ、優等生だったお兄さんは、
しま子さんに勉強をよく教えていたそうです。大好き
だったお兄さんの50回忌を1994年に行なった際
、「兄の生き様を形として残したい」「戦争体験を伝えたい」
と思われました。和裁を35年間していた経験を生かし、
独学で当時の様子を再現した人形を作りはじめられました。
古着は当時、しま子さんが持っていた物もありますが、
ほとんどは、「人形作りに使ってください」と、たくさんの
人に頂いたものだそうです。これまでに140点を完成
されています。
「召集令状」 赤紙一枚で兵隊に行かなければ
ならなかった新妻の悲しみ・・・
早くも夫との運命の別れとなった
「最後の面接」 明日は息子が戦地へ旅立つ日
孫を背負い、にぎり飯をお腹一杯
食べさせてやりたい母の願い
「夫を見送る身重妻」 いよいよ戦地へ旅立つ日
「生まれてくる子のためにも
身体を大事にな」
妻は涙をこらえ「お元気で・・・」
「戦時中の嫁入り」 昭和19年 戦争真っ最中
「贅沢は敵だ!」と言われた時代
喪服を着た花嫁
三日後に夫は出征した
「兄の遺骨迎え」 昭和二一年八月 フィリピンの戦場から
遺骨になって帰ってきた兄
無言の対面で流れる涙は果てしなく・・・
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9月1日〜15日でギャラリー来場者が1,000人を超えました。
遠方からもたくさんの人が来られました。それだけ共感する
展示内容であったと思います。戦時中を経験された来場者の
一人は「人形を見るとあの頃を思い出し、涙が出ます。」
「苦しかった思い出が、よみがえってきた。」と話されていました。
そして最後に村上しま子さんは、「心の中では兄に帰って来て
ほしいと願いながら、それを口に出せなかった時代でした。」
「あの戦争を繰り返してはいけません。ぜひ若い人に見てもらい
平和の尊さをかみしめてほしい」と話されました。
「兄の面会」 明日は満州へ旅立っていく
「もう一度、白いご飯が食べたかったなあ・・・」
お兄ちゃんの最後の言葉
持ち込みを上官に断られ渡せなかった
悔しさ、悲しさ、去っていく兄の後ろ姿が寂しく
涙がほほをつたう
「志願兵として出征」 母と最後の別れ
「身体に気をつけて、元気に帰ってきて」
母が最後の言葉を残し去っていく
「夫の遺骨迎え」 出征の時に赤ちゃんだった太郎が
四歳になり、今では母の心の支え
母と子の強い きずな
村上しま子さんと、後ろの軍服を着た青年の
写真はお兄さんです。
(芋焼酎)